ぺしさん情報
http://ameblo.jp/hidenori-hara/entry-10846558854.html
玄人のひとりごとのの作者の中島徹氏が死んだらしい。

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自分の人の死に対する感慨は年を追うごとにどんどん変わってきている。
人が死んで泣いたのは恐らく中学の時父方の祖母が死んだ時が最後。当時好きだった年上の従兄弟に泣いていることをからかわれたのが切欠で、悲しみの理由を突き詰めた。両親がある事情で家を飛び出したせいだろう。小学校低学年までは父方の祖母には滅多に会うこともなく、いい印象も持っていなかった。それなのに何故死んだことがこんなにも悲しくて涙が出るのだろう?自分でも不思議だった。結局説明できる理由が自分の中に見つからなかった。だが、故人が悲しんでいる訳ではなく、悲しんでいるのは自分であり、それはエゴでしかない。故人とは全く関係の無い感情だ。
その後は、人の死に関して感情が動かなくなった。大学生の頃好きだった母方の祖父が死んだ時ですら、ふーん死んだかとしか思わなかった。母方の祖父の事は実父母より好きだったので、父親や母親が死んでもきっと悲しくないだろうとその時思った。高校の頃に仏教にはまったことがあって、人は死ぬものだというわりと当たり前のことを強く意識するようになったというのもあるだろう。遅かれ早かれ人は死ぬ。遅いか早いかの差に過ぎない。死ねば幸福からも開放されるが不幸からも開放される。
そして最近は、人が死ぬと若干羨ましく思うようになった。
8年程前に鬱になって以来、物事への興味が急速になくなって、いろいろ足掻いてはみたものの、結局物事への興味はあまり回復してない。物事への興味があまりないと、楽しいと感じることも減る。高校の頃、苦しみや悲しみを消す思考実験を行い続けた結果、楽しさや嬉しさも同時に消えてしまったという経緯もあり、現時点では生きていて楽しいことはぼないと言える。
うつ病になった頃は、生きている意味がねぇなあと、強く意識するときがあったが、だからといって死にたいとは思っていなかったし、そんな事で死にたいと思うようになることはないだろうと考えていたが、最近、死にたいと思うことが多い。人生、何かこう…飽きたゲームを続けさせられているような気分だ。
後数十年生きる可能性を考えるとぞっとすることがある。